江戸はどんな姿だったのか?
江戸の面影はもうほとんど残っていませんが、東京の街並みは江戸に似ているため、今でも東京の原型だった江戸の雰囲気を感じることが出来ますよね。
では、江戸の始まりはどのようなものだったのでしょうか。江戸は、16世紀の初めまでは、隅田川河口の湿地帯にある漁師町にすぎませんでしたが、集落を見下ろす岬には、平安時代(794-1185)から城がありました。この城が、徳川将軍が江戸に移ってから拡大したと言われています。
近代日本は、徳川家康によって統一されました。家康は、武蔵野台地の最東端に位置するという江戸の戦略的優位性に気づき、ここを政府の拠点としました。岬には新しく巨大な城を築き、堀をめぐらせて敵の攻撃から守りました。
家康は城の東側に畑を作り、城の食料を確保しました。また、城下町の繁栄に合わせ、周辺の湿地帯を埋め立て、新しい海辺の土地を作るよう部下に命じました。
町の商人や職人が住んでいたのは、この埋め立てられた低地でした。この干拓地の部分には、中国の首都や京都と同様に、伝統的な碁盤の目状に都市整備が行われました。ただし、日本の都市は中国ほど整然と作られておらず、複数の碁盤の目で構成されていました。
この低地は、商人が倉庫を構える日本橋と、都内最大の寺院や芸能の中心である浅草に二極化されました。両者の間には水路が張りめぐらされ、商品が自由に行き来できるようになっていました。
家康は日本を完全に支配するため、全大名が1年おきに江戸に滞在することを義務づける「参勤交代制度」を導入しました。大名が地方に戻っても、婦女子は江戸に残るよう命じることで、大名が自分を倒そうとするのを防ぐ人質政策をとったのです。
大名たちは、家康から江戸城の西側に領地を与えられました。ここは低地とは違い、丘の稜線やけもの道につながる急峻な地形で、水田の境界線に沿って道路が整備され、農村のような景観をしていました。この地区は「高台の町」と呼ばれました。大名は赤坂、四谷、後楽園といった丘陵地に広大な屋敷を構え、彼らに仕える職人、農民、労働者は低地や街道沿いに住んでいました。
江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超えていました。